「アルフォル森の少年日誌」
 
 
 
 
 アルフォル森という、とても大きくて、とても広い森がデリノルン大陸には存在する。
 
 その森は大陸のおよそ半分に広がり、そこではエルフや獣人といった森の民が多く隠れ住んでいると言われている。しかし、あまりの広大さから別名『野生の迷路』と呼ばれ、未だ嘗てその中央部に辿り着いた者がいないほど広かった。
 
 そんな『普通の人』が住むには適していないと思われる森の何処かに、ポツンと木で作られた粗末な小屋があった。
 
「―――ん。……ああ、もう朝か」
 
 その粗末な小屋の中、これまた粗末なベッドで寝ていた一人の茶髪の少年が軽く呻きを上げながら眠たげに右目を開ける。そのまま暫くシーツの中でもそもそと動いていたが、やがてシーツを足元に押し退けると寝ころんだままグッと背伸びをした。相変わらず開いているのは右目だけ。否、彼には左目自体が元から存在していない。左目があるべき場所にはのっぺりとしていて、まるで殻をむいたゆで卵のようでもある。
 
 そんなことはさて置き、彼は欠伸をかみ殺しながら朝食を作ろうと床に右足を下ろした。
 
「うん?」
 
 下ろしたはずの場所にあったのはいつもの履き慣れたサンダルではなく、なにやら柔らかく生暖かいモノだった。何度か軽く足の裏でそれを踏みつけるが、返ってくるのはむにゅむにゅとした感触。そして微妙にふさふさしている。彼の記憶が正しければこんなサンダルを用意した覚えはない。そして、聞き間違えでなければ足元からなにやら呻きのようなものが聞こえてくる。
 
「……まさかな」
 
 そんな筈は無い。そんな筈は無いと思いつつも、彼は軽く冷や汗を流しながら足元を覗いた。そうだとも。こないだ見つけた我が家に通じる秘密の抜け穴は、きっちり石を詰めて厳重に埋めた。いくらあいつとはいえそう簡単に侵入できないだろう。そう彼は思っていた。
 
「……ううーん」
 
 いた。認めたくはないが紛れも無くあいつである。小柄な体系、肩まで伸びた赤い髪の毛、その髪の毛から覗いている二つの小さくて丸っこい『熊耳』、そして体系にあっていないふくよかで大きな胸。彼――ラッド・ボーンの足に胸を踏まれてすやすやと眠っているのは、度々本人曰く食料を分けて貰いに来る熊人(ワーベア)のカティ・リューであった。
 
「って、カティ! な・ん・で、お前がここにいる! ていうか、何処から入ってきた!?」
 
 ラッドは慌てて胸から足を離すと同時に絶叫する。それに反応したのか、床で寝ていたカティが気だるそうに薄っすらと目を開けて瞬きをする。そして、むくりと体を起こすとふあーと大きな欠伸をしてベッドの上で固まっているラッドに顔を向けた。
 
「ん、やあラッド。おはよう」
 
 しれっとした顔で挨拶をし、まるで何の問題も無いかのようにわしゃわしゃと頭を掻く熊娘にラッドは額に手を当てて唸った。
 
「……あのなあ。おはよう、じゃない。俺、人の家に勝手に入るなって何回もお前に言ってるよな?」
 
 キリキリと軽く頭痛が起こしながらラッドが尋ねると、カティは心外なと言わんばかりの顔になった。
 
「何を言っているのさ。私とラッドの仲じゃないか、堅いことは言いっこ無し。それに、ここに来たらもれなくご飯が出てくるし」
 
「そこら辺の雑草でも食ってろ!」
 
 ラッドが吼える。ちなみにカティは熊の性質を引き継いでいるので肉だろうが魚だろうが、それこそ虫だろうが何でも食べる雑食性である。しかし、ある日森を散策している時にバッタリと彼女と出会ってしまったのが彼の運の尽き。危うく食料としてお持ち帰りされそうになった彼は咄嗟に携帯していた弁当を差し出して事なきを得たが、その味を占められて以来幾度と無くご飯をたかりに来るようになった。野生動物の性質丸出しである。
 
「ひどいなあ。で、今日のご飯は何かな?」
 
「やかましい。お前に食べさせるものは……ある! あるからにじり寄るな舌なめずりするなっ!」
 
 結局、ラッドは泣く泣くカティの分の朝食も作った。
 
 
 
 
 
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「ふう、御馳走様」
 
「食ったな? 良し、今日はどうやって進入してきた?」
 
「お昼ご飯は魚が食べたい」
 
「寝言は寝てから言ってくれ」
 
 朝食を食べ終わってすぐである。お茶を飲んでほっと一息ついているカティに進入経路を問いただすが、返ってきたのは予想の斜め上を行く回答にラッドは慢性的な頭痛に襲われた。ちなみに慢性的な原因は言わずもがなカティである。
 
「だから川に遊びにいかないかな? 水浴びとかきっと気持ちがいいと思うんだ」
 
「行かない。一人で行ってきてくれ。俺を巻き込むな」
 
 冗談じゃない、とラッドは心の中で溜息をついた。彼にだって今日の予定というものがあるのだ。ちなみに、本日の彼は野草を中心とした採集を予定していた。野草といっても病気などに効く薬草から、そのまま食用にする物やお茶として使えるものまである。ちょうど木苺も実を成す頃合だろう。それでお菓子を作るのも悪くは無い……と、そこまで考えていただけあって安易にこの誘いに乗りたくは無かった。絶対に疲れるに決まっている。肉体的にも精神的にも。大体春になったばかりの川の冷たさに耐えられる訳がない。
 
「むう、そこまで嫌がることは無いじゃないか……」
 
  と言いつつ、カティはその大きな胸を食卓に乗せながら首を傾げている。見た目は非常に可愛いのだが、ラッドはそんなものに乗るほど甘くは無い。例えるなら甘い匂いを出して獲物を誘う食虫植物だろうか。彼女にはその自覚は無いのであろうが、非常に酷似しているとラッドは思った。
 
「一人じゃつまらないんだよ。一緒に遊びたい私の気持ちをラッドは無碍にするのかな?」
 
「川に入りたくない俺の気持ちはどうなる」
 
 ラッドは我関せずと食器を片付け始める。といっても使った食器類を桶に突っ込むだけだ。それを外の井戸まで持っていって洗わなければならない。まだ水冷たいだろうなあと思いつつ、カティが不貞腐れているのを見て内心ニヤリとした。
 
「はあ、そうか。なら仕方ない」
 
 カティがカクンと首を落とす。
 
「一人で行くことにするかな。その代わり適当に貰えるだけ食料持って行くけど」
 
「川に入るのは嫌だが、釣りなら付き合う。俺も魚が食べたい気分になってきた」
 
 カティがつまらなさそうに呟くと同時に、不自然なまでに爽やかにラッドが微笑んだ。それはもう若干顔が引きつっているが間違いなく微笑んでいた。
 
「そうか、それはいい。では、早速出かけようじゃないか」
 
「待て、せめて洗い物と洗濯物はやらせてくれ」
 
 「えー、後で良いじゃないかー」というカティの言葉を聞き流しつつ、ラッドは洗い物が詰まった桶を抱えて外に出る。冗談じゃない。こびり付いた汚れは落とすのが大変なんだぞと考えながら井戸の脇に桶を置いたところで、ガサリと茂みから音がした。
 
「ん?」
 
 その音に気づいたラッドが視線を向けると、何やらガサガサと怪しげに茂みが揺れている。それはもう、盛大にガサゴソガサゴソ揺れている。
 
「……」
 
 暫くラッドはその茂みを眺めていたが、何の前触れも無くパタリと音が止んだ。あまりにも静か過ぎてちょっと不気味だったが、それを気にした風も無く井戸から水を汲もうとラッドが振り返ると、金色の瞳が彼の顔をニコニコと見つめていた。
 
「って、うわっ! シンシアさん!? いつの間に!?」
 
「えっ? えーと、何時から……ですか? つい先刻ですけど」
 
「本当ですか!? 気配を全く感じなかったんですけど!?」
 
 ラッドは思わず腰が抜けそうになったが、男としての意地か何かでぐっと堪える。それを全く分かっていないのか、尖った耳で冒険者のような服を着た女性のシンシア―――本名、シンクレイシア・ラン・ティオラはその青くて長い馬の尻尾のような髪をたなびかせ、頬に手のひらを当てて不思議そうに首を傾げている。チュンチュンと鳴いている小鳥の囀りがやけにその風景に合っていた。
 
「はあ。いや、まあ別にいいんですけどね。それで、今日はどうしたんですか?」
 
 気を取り直して井戸から水を汲み上げ、食器の入った桶に流し込みながらラッドが尋ねる。
 
「いえ、実は先日新しい作品が出来たんですよ。それを是非ラッドさんに差し上げようかと思ったのですが……」
 
 それを聞いたシンシアはポンと手を合わせると背負っていた背嚢を地面に下ろし、中から木で出来た箱を取り出す。どうぞとそれを手渡されたラッドは箱をパカリと開けると、透き通った水晶の短剣が入っていた。
 
「えっと……いつも同じ感想なんですけどすごく良いと思いますよ。……ていうか、本当にコレ貰ってもいいんですか? こんな綺麗な水晶細工、街で売ったら相当良い値がつくと思うんですけど」
 
 ラッドは思わず短剣を箱から取り出し、様々な角度からそれを鑑賞する。短剣は角度を変える度に太陽の光がキラリと煌き、それが目に入ったのかラッドは眩しそうに目を細めるが、芸術にあまり関心の無い彼の目から見ても本当に良い一品だと思った。
 
「いえいえ。前にも言いましたが、これは趣味なんですよ。別にお金が欲しい訳ではないですし、人里へ出る気も今の所ありませんから」
 
 シンシアはふるふると軽く首を振りながら、もう一度背嚢を背負う。その拍子にはさりとシンシアの青い髪が靡いた。
 
「そうですか。じゃあ、ありがたく頂きますね。ありがとうございます。……そういえば、今日は他に予定はあるんですか?」
 
「予定、ですか? いえ、特にはありませんよ」
 
「だったら、良ければですけど一緒に川に行きませ「是非ご一緒させてください!」……ですか」
 
 正に即決であった。
 
 
 
 
 
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「うーん、しかし良い天気だね」
 
「ああ、そうだな」
 
「だから一緒に川で水浴びしよう」
 
「嫌だ」
 
 ラッドは釣竿でぺしんとカティの頭を軽くはたく。大して力は込められていなかったが、カティはうーと頭を抱えながらラッドを睨みつけた。
 
「しかし、カティさんの言うとおりです。今日は本当にいいお天気だと思いますよ」
 
「いや、まあ良い天気なのは確かですけどね」
 
 ぽわぽわと微笑みながら昼食用のパンと干し果物が入ったバスケットを提げているシンシアに、軽くげんなりしながらラッドは釣竿を適当な岩の上に置いて石をひっくり返し始める。要するに釣りの為のエサ探しだ。ちなみに何を餌にするのかは、言わずもがな石と石の隙間で生を謳歌している虫達である。この辺りは自分以外の生物を犠牲にしない信念を持っているエルフにとってはあまり印象は良くないが、シンシアは『私達は私達で、他の方には他の方の生き方がありますから」と慣れはしないもののそれを咎めることはしない。生きるためなら迷いなく肉を食べるラッドにとって非常にありがたかった。というか、植物だけで生きていける自信がラッドにはない。
 
「それじゃあ、俺は釣りしてるけどカティ……はもう川に飛び込んでるか。シンシアさんはどうします?」
 
 ラッドはある程度虫を小さな升に放り込んでからよっと釣竿を担ぎ直す。
 
「え! わ、私は……その……よろしければ」
 
「えいっ」
 
 ばしゃん。実際にそんな音と共にラッドとシンシアに盛大に水が降り注いだ。ラッドがしとしとと髪や顔から雫を滴らせながら川の方に顔を向けると、楽しそうにカティが笑っていた。
 
「二人して何いちゃいちゃしてるのさ。あ、そうだ。ラッドは無理だけどシンシア姉さんなら一緒に遊べるよね。というわけでシンシア姉さんは私と一緒に遊ぼ」
 
「え? あ、ちょっ、ええっ? カティさん! 私は……!」
 
 シンシアが何かを言おうとするが、抵抗空しくカティにずるずると川の中に引き摺りこまれた。見様にとっては巣に引きずり込まれる獲物であろうか。見ていて涙を誘う絵である。傍から見ているラッドにとっては見慣れた風景ではあるのだが。
 
「あーカティ、頼むから暴れて魚を……って無理か」
 
 バシャバシャと盛大に水飛沫を上げながらカティが暴れる。というかシンシアが沈められている。これだけ盛大に暴れていれば魚も逃げ出すだろう。自分なら絶対に逃げるなと思いながらラッドは一人ため息をつき、無言で上流の大分離れた位置で釣り糸を垂らした。
 
 
 
「ほらほら、シンシア姉さんも服を脱いだ脱いだ!」
 
「ちょ、カティさん私は……きゃっ! ど、どこを触って!?」
 
「別に良いじゃないさ。ほらほら」
 
「そっ、其処は私の……!」
 
 
 
 とりあえずは暫く絶対に戻るまいとラッドは心に誓っていると、ラッドの握っている竿の先がピクッと動く。その瞬間に彼はピシュッと空を切らせながら竿を振り上げ、掛かった獲物を水の中から引きずり出した。
 
「……チッ、蟹か」
 
 餌を鋏で引っつかんで離そうとしない蟹を引き寄せて舌打ちする。若干口調が荒っぽくなったのは獲物のせいか、それとも集中しているからか。とりあえず桶に拳位の大きさのその蟹を放り込んで、再び釣り糸を水の中に垂らす。今のラッドの右目は爛々と輝いて見えたのは光の具合なのだろう。そんな様子を全く知らない何処かの鳥が暢気にふぁーと欠伸の様に大きく鳴いていた。
 
 
 
 
 
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「おお、大漁だね!」
 
 先ほどまで水浴びをしていたせいで髪の毛がしっとりと濡れているカティがラッドに駆け寄りながら目を輝かせている。
 
「確かに……桶から溢れそうですよね。流石ラッドさんです」
 
 濡れた体を乾かすためなのか、焚き火の傍でちょこんと座っているシンシアがいつもの様にニコニコと微笑んでいる。
 
「……うん、確かに大漁ですよ? 桶から溢れそうだよ? でもですね、何故に魚じゃなくて蟹と蝦だけ!? 魚は! 明らかに作為的な物を感じるのは俺だけですか!?」
 
 ラッドが耐え切れずに絶叫した。
 
 
 
 今回のラッドの釣果
 
 蟹……八匹 蝦(エビ)……十五匹 魚……無し
 
 
 
 見事に鋏が付いた物だけである。幾らなんでも不自然といえば不自然であるが結果は変わらない。それぞれ結構な大きさのものばかりだが、釣りなのに魚が釣れなかったラッドの苛立ちは最高潮であった。
 
「まあまあ、別にいいじゃないさ。それより私お腹減ったから早く食べようよ」
 
「やかましい、お前は食うことしか考えて……あー、はいはい。わかった。わかったから指をパキポキ鳴らすな。今用意するって」
 
 非常にいい笑顔で拳を握るカティの姿に決して負けたわけではない。が、ラッドはため息をつきながらも適当にそこそこ大きい平べったい石を複数敷き詰めて、その上に新しく焚き火を作る。暫く火を燃やした後に残った薪を除ければ、残るのは熱々に熱された石である。要するに石焼きにしようという事だ。石は鉄とは違って簡単に冷めないので即席の調理器具としてはもってこいなのである。
 
「……っと、こんなもんか」
 
 薪を除けた石の上に生きたままの蟹や蝦を並べる。石の上でジュウジュウと音を立てながら焼き蟹と焼き蝦が出来上がるのを確認して、そのうちの一つをカティがひょいと掴むと殻ごと齧り付いた。
 
「あ、おまっ」
 
「んー、生も良いけど焼いたら益々旨いね」
 
 カティはラッドの視線など全く気にしない風にバリバリと殻を噛み砕いている。ラッドは咎める気も失せて自分も焼き立ての蝦に齧り付いた。
 
「熱っ!?」
 
 結果、思いっきり舌を火傷した。余程熱かったのか、ラッドが齧り付いていた蝦がポロッと地面に落ちる。
 
「だ、大丈夫ですか!?」
 
 それを焚き火の反対側から眺めていたシンシアが、いつの間にラッドの隣に駆け寄った。森の中でのエルフの身体能力を持ってすれば不可能ではないが、それにしても瞬きする間だ。
 
「ひゃ、ひゃいりょうふ……らないれす」
 
 恐らく、大丈夫じゃないとラッドは言いたいのであろう。だが、呂律が回っていない上に顔が真っ赤になっている。右目の端から透明な液体が垂れているが、きっと汗なのだろう。決して涙ではないのだ。
 
「あっ、えっ、えっとお水お水お水!?」
 
 その様子を見て尚更にシンシアは焦りに焦る。わたわたと顔を右往左往して水、もしくはそれに順ずるものを捜すが、焦っているからなのか傍らにあるコップに気づかない。
 
「ひ、ひんひあはんおひふむっ!?」
 
 そして何を思ったのかラッドの目の前が一瞬ぶれたかと思うとシンシアの顔が目前に迫っており、気づけばラッドとシンシアの唇が引っ付いていた。そして同時に、シンシアの口の中に含まれた水がラッドの口内に流し込まれた。ついでに言うとシンシアの舌も一緒に口内に侵入してくる。
 
「んっ……」
 
 ラッドはあまりの出来事に目を見開く。が、対するシンシアの方は必死なのかラッドの顎に両手を添えて目を閉じている。ラッドは数回瞬きをした後、そのままゴクリと口の中の水を飲み込んだ。
 
「……ぷはっ」
 
 そして、数秒の後シンシアの唇がラッドの唇から離れた。閉じていた目を開けたシンシアの瞳は、少し潤んでいた。
 
「えー、あの……シンシアサン?」
 
 ラッドが驚きのあまり口をパクパクとさせる。確かに舌の痛みは多少引いたが、そんなことは気にしていられない。頭で状況が整理できないのか、何故か最後の名前だけ片言だ。
 
「…………」
 
 そのままラッドとシンシアの視線が絡み合う。
 
「…………きゅう」
 
 そして今度は一瞬でシンシアの顔が真っ赤になり、目を回してコテンと倒れた。
 
「あ、ちょっ、シンシアさん!? 大丈夫ですか!」
 
 慌ててラッドがシンシアの体を揺さぶる。その横ではただひたすら美味しそうにカティが焼き立ての蟹とパンを頬張っていた。
 
 
 
 
 
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「……ああ、今日も騒がしい日だった」
 
 ぷはぁと親父くさい息を吐きながらラッドは山葡萄酒を呷る。作ったのが去年の秋なので、そろそろ量を考えないといけないと思いつつも飲んでしまうのは日ごろの疲れのせいであろうか。実は幼少期の頃から酒に慣れているので若干依存しているのだが、ラッドはそれに気づかないでもう一杯呷った。
 
 あの後、目を回したシンシアが起きなかったので昼食を取る暇もなく自分より背の高い彼女をラッドは担いで家に帰宅する。カティは残ったご飯を処理するとのこと。バスケットとかコップは後で届けると言い熱々の蝦に齧り付いていたカティを恨めしく思いつつ、ラッドは顔に汗をにじませながら着た道を戻る。
 
 結局、シンシアが目覚めたのはラッドのベッドの上であった。暫くはぼんやりとしていたが、やがて接吻のことを思い出したのか顔を真っ赤にしつつ自分の荷物を抱えて森の中に消えていった。流石は森の民ということだろうか、ラッドがシンシアに続いて玄関から出たときには彼女の姿は何処にも見えなかった。
 
 その暫く後でカティが空になったバスケットや釣竿などを届けにきた。お駄賃としてまた飯をたかられるかとラッドは冷や冷やしたが、カティは「今日は楽しかったよ。じゃまた今度ね」といってのっそのっそと森の中に消えていった。
 
 そして微妙に肌寒い夜の帳の下、家の壁にもたれ座りつつ僅かに広がる空を眺めながらラッドは月見酒と洒落込んでいる。つまみである家に残っていたパンを一切れずつ摘みながら。
 
 酒を飲んだおかげで、ラッドの体はポカポカとしている。気分は悪くない。ホゥホウと何処かで梟も鳴いている。そのコーラスを耳で受けながらラッドは残っていたパンを葡萄酒で流し込み、腰の辺りから長方形の箱を引っ張り出したかと思うとそれに口をつける。それにラッドが息を吹きかけると、ぷぁーぷわーとハーモニカと養父が名付けていた楽器の音色が静かな森に響き渡る。力強いのだが、どこか儚げなその音がラッドのお気に入りだった。
 
 暫しの間、ぷぁーぷわーとラッドはハーモニカを吹いていたが、やがてハーモニカをズボンと腰の間に差込み直すと家の中に入る。そして自分の机に明かりを灯すと、古ぼけた紙の冊子に羽ペンで何かを書き込んでいく。
 
 
 
 「シユオの月 8日
 
 
 今日は朝からカティに襲撃される。気づけばベッドの下で寝ていた。今思い返せばどうやって進入したかを聞き忘れたが、次に会った時にきっちり問い詰めたいと思う。
 
 それと、今日はシンシアさんも訪ねて来た。また自作の水晶細工を頂いてしまう。今度、お礼にお菓子でも作るとしたい。そろそろ木苺が実る季節なので、それでパイを作るのが良いかもしれない。
 
 そして、カティとシンシアさんと川に行く。俺は釣りをしたが、蟹と蝦しか釣れない。何故魚がつれないのか非常に不思議であった。カティとシンシアさんは水浴びをしていた。
 
 ―――後、シンシアさんに口移しで水を飲まさせられた。舌を火傷した俺も悪いが、シンシアさんは慌てすぎだったと思っ……
 
 
 
 其処まで書いて、ゴツンとラッドは机の上に額をぶつける。
 
 
 
 とりあえず、忘れることにする。特筆することはそれくらいだ。酒の量が減ってきたので配分を考えたい」
 
 
 
 
 そう締め括り、ラッドはペンを置く。そのままふっとランプの火を消したかと思うと、ベッドに転がり込む。
 
 体をシーツに包ませながら、明日こそは採集に出かけたいなあと思いつつ右目の瞼を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―――翌日、またカティとシンシアが自分を訪ねてくることを彼は知らない。
 
 
 
 
 
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